江守の里山車の軌跡 飛躍編 2012.2013
平成24年 2012年
昨年までは、大河ドラマ等あり、すんなりとテーマは決まったのですが、特に周りに話題がないと難しく、それでも福井にはいろんな名立たる武将がいる中で、新田義貞はまだでした。江守の里の裏山見たいな所「城山」に目をやると登山道の案内に城山の遺跡案内にこの山城で活躍した内容がしるされていました。
これを見逃すわけにはいかず。これを題材にテーマにしました。
北陸落ちで越前のほうに逃げ延びた新田義貞、弟 脇屋義助と共に戦い、自軍の形勢立て直そうと精一杯の姿、総隊長の新田義貞が不慮の事故死みたいな最後に終わってしまったにもかかわらず、気持ちを切り替え新田軍の士気統一し南后の城山にある蕗野寺城(ふきのじじょう)を築き、越前守護の斯波氏を一時加賀まで追い落とした。そんな不屈の精神を貫く「やってやるぞ」と立ち向かう両武将の荒々しい姿をうまく表現出来たら、と思います。
生き延びた脇屋氏の末裔が後の将軍徳川家康であるらしい?
何かと調べていくと、福井の文化も奥が深いことがよくわかりますねー!
この江守の里も城山の麓付近ということで、今までの山車で一番逸話が身近なところにあるように感じます。
そして、忘れてならないのが、この年から福井祇園祭に参加するようになりました。山車はカルチャーパーク経由木田銀座そして木田神社までの巡行です。
この年は納涼祭の一週間前7月22日となり、3週連続の巡行となりました。
この翌年2013年には、2011年に引き続き地元の市会議員 堀川氏の計らいで新幹線高架下を利用して物づくり活動を推進と言う事で、一旦高架下に運ばれた、「新田義貞・脇屋義助 山車」を福井フェニックス祭りメイン会場の民謡の夕べ行う会場へ巡行し、数年ぶりに復活した商工会議所の商工神輿と共にコラボレーションしました。
この時のギャラリーの多さに唯々圧倒されました。
平成25年 2013年
越の大徳 泰澄大師大師 山車
2012年同様、福井に関連する偉人はたくさんいれど、どの人物をテーマにしようか迷っていると、江守の里の隣接する、「南江守」は古い旧家もあり歴史古い村である。
その村には江端川が流れていて、古くから暴れ川として氾濫・決壊と村人を困れせていたらしいです。
その昔その川にも渡し船が設けられていて、今もなお名前だけは残っているのですが。昔々その渡し船の先導さんの娘子供がこの泰澄と言う話を、清明地区の歴史語り部の草分けのような存在の(第4代福井市歴史語り部会会長 故角谷浩忠)から伺って、それまでは泰澄大師と聞いても空想上の人物とか聞いていたので、思いつきもしなかったのですが、地元に大きく関わり合いがある人物と分かり、角谷先生からいろいろレクチャーを受け、白山を開山にあたり、勝山平泉寺でのエピソードである竜の化身を鎮める姿をイメージした山車です。
この年も福井祇園祭に参加しました。地区の社南納涼祭の翌日で、7月27日28日の2日連続の巡行は初の試みでした。
江守の里山車の軌跡 スキルアップ編 2010.2011
平成22年 2010年
この年NHK大河ドラマ「龍馬伝」が放送され、幕末様子が事細かく放送されました。ここ福井も幕末の重要な舞台でもありますし、主人公の坂本龍馬も福井の地を何度も訪れているといううことで、坂本龍馬と夜通し酒を酌み交わし、日本の夜明けを夢見る三岡八郎(由利公正)をテーマに山車をつくりました。
21年までは、漠然と作者の頭の中で描いているものを山車に現していたのですが、作っている内に、上下左右前後ろとバランスがおかしくなってきているため、制作前に十分な打ち合わせを絵の達人と行い全体像のイメージを描いてから、山車の制作にかかるように制作方法変えていきました。こうすることによって、数段クオリティが上がったように思えるのは、親バカ根性なんですかね。
江守の里住人であった、稲田代議士も幕末の有志山車の紙貼りを手伝った。
平成23年 2011年
お江 母お市 北庄城炎上 山車
この年も 大河ドラマが「お江」と言う事で、せめて、未来ある娘たちを、逃がして生きることを諭したとされる様なイメージで、大阪城に匹敵されるような、九重のお城「北庄城」が炎上し、自害する実の母親を思い、かたく決意している江を表現するさまをイメージした山車を作成しました。
時は、天正十一年(1583年)4月24日、越前北ノ庄城は炎に包まれ、柴田勝家とその妻・お市の方が自刃して果てました。
下の句は、落城の前に、「お市と勝家」が読み上げた歌とされています。
お市
♪さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れをさそふ 郭公(ほととぎす)かな♪
勝家
♪夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公♪
この年の山車はクオリティーが高いということで、お盆から夏休み期間中、新しく出来た北陸新幹線の高架下の空き地を利用して、H氏市会議員の手助けも頂き、誇りあるわが町の山車を展示し、多くの人に感動を与えました。
江守の里山車の奇跡 夢プラン連携 編 2008.2009
平成20年 2008年
安倍晴明山車
前回までは福井の名だたる武将、継体天皇即位記念等いろいろ考える余地がありましたが。今まで続いてきた、福井に関連する偉人をテーマとなるとなかなか難しく福井を掘り下げて研究した結果。
山車の安全祈願に来て頂いている。木田神社には晴明神社があり。全国でもそんなに数多く無い神社がこんな短にというう事で取材に行ったところ、『その昔安倍晴明が北陸の地に修行にきたときのことでした。その頃大火で町を覆い尽くし人々を困らせたのを非伏せの術を掛け町を守った』との逸話があるところから、平成20年の山車は「安倍晴明 山車に決定しました。
この年は、社南地区の青年連絡協議会 準備委員会の活動一貫として、社南地区の皆さんに誇りある山車を巡行によって見て触れてもらい、尚且つ社南地区挙げて応援し、青年会活動を活発化する上で、多くの参加者に達成感を味わってもらうべく、早朝より江守の里スタートし納涼祭会場の社南グランド目指して、いろんな自治会と連携を保ちながら、山車の巡行が進められました。
しかしながら、午後より天候が大荒れとなり、敦賀の方では大型テントが吹く飛び、死傷者が出るなどの最悪な事態となり、行政からの通達により地区で開催予定の祭りごとは中止になりました。誠に残念でした。
江守の里夏祭りは例年通り行われ、この年は昨年に引き続き、隣のそのまた隣町の「商工団地自治会」のお祭りに招待され、恥ずかしながらの山車で盛り上げることが出来ました。
平成21年 2009年
結城秀康 山車
徳川家康の次男。一時、秀吉の養子となり羽柴秀康と名乗る。秀頼生誕後、結城氏を継ぐ。徳川家の後継資格を持つが庶子として扱われた秀康没後は松平姓に復し(秀康の晩年に松平姓に復したとも言われる)、諸大名の中でも御三家に次ぐ制外の家とされ厚遇された。
養父、豊臣秀吉が秀康を可愛がったので、豊臣家への思慕も厚く、武将としての器量があったため、徳川家に謀殺されたとも言われる
この年ぐらいから、いろんなところから問い合わせが来るようになり、特に20年度お世話になった、木田神社の宮司さんに相談した、地元木田神社には古くから「福井祇園祭」が開かれているが、こちらも世代交代を余儀なくされている状態で、地元地域と一緒に巡行して勢いのあるでカンフル剤になってもらえないかとお誘いがありましたが、何回か打ち合わせを繰り返し行いましたが、この年には現実にはなりませんでした。
そのほかいろんな地区の方が山車小屋を訪れ、多くの方共にやろうと賛同頂きました。この年FBCテレビの「おじゃまTV」が江守の里夏祭り会場から中継したりと、何かと大忙しでした。
江守の里山車の軌跡 夢プラン創世記 2007
平成19年 2007年
夢プラン計画
江守の里も福井市の造成が始まり、自治会が出来て丁度30周年を迎えるこの年、移り住みだして若かった人達も、次世代へとシフト行くころになりました。
当然町全体の平均年齢も上がり有志の人達も衰えを隠し切れなくなってきている時期になりました。江守の里夏祭りの継続は勿論ですが、祭りのメインである江守の里山車の継続も次世代へとシフトチェンジの徐々に進めていくことが必要となりました。
新たに増床された公民館には山車小屋のスペースは確保できたのですが、小屋自体がありません。小屋を作る資金等も考慮しなくてはいけなくなり。有志のみの力では継続が難しくなりました。
組織力、資金力、牽引力等のいろんな観点から、自治体主導の老若男女問わず町民一体となって、目標を持った団体を立ち上げ誰でもが関わり合いが持てる組織作りをすることにしました。
平成19年は30周年という事も有り例年とはいろいろ違う行事が執り行われました。
中でも、橋向こうの新種自治会と共同の夏祭りを行い、双方向の親睦を深めこれをきっかけに、お互いの自治会に交流が生まれました。
平成18年の山車巡行でも参加して頂いた時代を担う若者達を中心に、青年会活動を呼びかけ、特色ある行事を筆頭にお互いの親睦を測れるような会を発足する応援しました。
それでも、やはり花形である江守の里山車は、この年も勿論製作しました。
継体天皇 山車
この年継体天皇即位1500年という事もあり、即平成19年のテーマが「継体天皇」に決まりました。
しかし取り壊された、山車小屋はすぐ立て直すことができず、いろいろお世話になっている壮年会有志の方々に協力して頂き、無事にこの年も山車が出来上がりました。
この年ぐらいから、多くのお子さん女性の人の参加などが目立っていき、目標達成の一体感が増していきました。特に自治会の協力という事で、製作過程の広報も手伝って頂き、町をあげて感あるものでした。
江守の里山車の軌跡 壮友会変動編 2004.2005.2006
変動平成16年2004年
柴田勝家 山車 復活
平成16年を境に山車作りが大きく変わり始めました。
壮友会の有志が「今年の山車は以前にも作った大型の行灯山車を作ってみましょう」の一言が壮年グループ眠っていた何かを目覚めさせてしまいました。
先ずは制作場所の確保からでした。過去にも大型の山車を作るにも制作する場所をお借りして、近所迷惑を考慮しながら、こつこつと作っていきました。そのころ丁度公民館横に浄化槽になっていた空き地があり、ここに仮設で小屋を建てその中で制作しようとゴールデンウィーク中に小屋を建て、急ピッチで山車が制作されて行きました。
前回の試行錯誤の柴田勝家山車の時とは若干条件が良くなり、青森ねぶたの本場の作成方法などインターネットで探し当てることが出来ましたが、やはり肝心な部分はなかなかうまくいかず、江守の里山車オリジナルの針金と針金をテープで縛っていくやり方は、先人の山車を作っていった有志からの引き継がれたものです。
何をやるにしても失敗の連続で、中々前には進めなかったのですが、完成目標にしていた社南地区の納涼祭に是が非でも間に合わせようと、毎晩徹夜してまで山車作りを行いました。
そして不幸が訪れます。7月18日未明から昼前にかけての記録的な豪雨にさらされて隣町のみのり地区を中心に勿論社南地区も大きな被害をうけました。
行政側も自粛を呼びかけ、地区の祭りは軒並み中止となりました。その2週間後に行われる地元の江守の里祭りをどうするかを、連日の様に会議が行われ、今まで順延こそあった江守の里夏祭りがこの年の自粛でついに中止になりました。
すると有志一同の猛反発が起こり「みんなでボランティアでも何でもするから、祭りだけがどうにかしてくれ」と連合会との交渉の結果、特別に江守の里秋祭りのして盛大に執り行われた。こんなこともあったせいで、この年の祭りはいつも以上に盛り上がりを見せた。
その後翌年には、福井時代行列に出品し江守の里壮友会のメンバーでローテンションを組んで、夜通しの警備を行いました。この時に運搬するのに経費がかかる為、時代行列の参加は翌年行いませんでした。
平成17年 2005年
姉川の合戦 「朝倉健景 真柄十郎座衛門」の山車
16年で脚光を浴びるてイケイケ状態になり、より一層大型で横幅もワイドな山車を作ると努力します。しかしながら、町内を巡行する為には、道幅の制限がありますそこで考えたのが、山車の上部行灯が乗っている部分を回転台で90度動かし、狭い道を切り抜こうと初めての試みで、からくり山車がこの年つくられました。サイズは歴代の山車の中でも、最大です。
平成18年 2006年
姉川の合戦 「朝倉健景 真柄十郎座衛門」の山車 分離型
この年は、公民館の増床工事の為、山車小屋自体が取り壊されて、作業が出来ない状態が続く中、江守の里夏祭りは例年通り行われました。制作までには至らなかったもの、巨大な山車を二分化して、2体の山車にして、一方を創設以来の有志「壮年会中心で」もういっぽうを第二世代及び新たに引っ越してきた有志で町を盛り上げるべく、2体の山車でこの年の祭りを盛り上げました。この時の第二世代がのちの青年会になっていくのでした。
江守の里山車の軌跡 壮友会編 2003以前
江守の里山車には、様々な歴史があります。
今回はその足跡をたどっていきましょう。
江守の里山車に至るまで。
有志たちが集まり、人を魅了し誇り高きものは何ができるか無い知恵を集結して出来上がったのが、東北祭りの一角『秋田の竿灯まつり』の提灯を真似して、江守の里の祭りに披露しようと、作製し練習を重ねていったのでした。
しかしながら、写真のそれとはいかないまでもそこそこの出来で、有志の一員が「これなら地区の祭りにもっていっても、恥ずかしくねーぞ!」と言い出し、地元の祭りの一週間前にも関わらづ、持ち上げる練習と化していたら、本番直前支柱がぽっきと折れてしまい、この企画は持ち越しになりました。
諦めきれない江守の里有志たち
やはり祭りは、神輿が一番と世界体操が鯖江サンドームで行われるのを見据えて、そのモチーフの山車を作りました。
1995年 福井市の最大の祭り「福井フェニックス祭り」の手作り神輿にも社南地区として出典至協力をし大賞も受賞しました。
この時は、みんなで一つになって活気ある夏祭りでした。ぜひ復活を願います。
現在の山車原型 試行錯誤の柴田勝家
現在の山車作りの引き金になった当時の写真です。当時はインターネットの情報や、どんな事をやって作っているのか分からず、手探り状態の中で試行錯誤しながら作った作品です。
若干大型すぎた感の山車から一変
大型の山車を維持していくには、保管場所の問題があり、またしても頭悩ますこととなりましたが、打開策として打ち出されたのが、能登地方の伝統になっている、「キリコ山車」でした。
ここまでとはいかないが、図柄を毎年交換して、毎年テーマを変えていくことで飽きのこない山車が出来、尚且つ支柱さえ組み替えれば、コンパクトに収納できるというう点では、年数回の祭りには重宝しました。
作製当初は子供会の協力もあり、小さなキリコ山車も作り一緒に山車引きしました。
やがて勇壮な山車を追い求め、雨の日にも強い防水をするように進化を遂げていったのです。
能登地方の伝統の祭りにはまだまだ程遠いものでしたが、なかなかの仕上がり具合でした。